Project
2_Sobrevivência
Year2020
Lecturer
Yoshiko NAGAI永井佳子
Photo
Yurika KONO高野 ユリカ

Sobrevivência 「 生きのびる 」

永井佳子さんとの対話

2020年9月19日
17:00 プレゼンテーション
19:00 質疑・ディスカッション

ブラジルでよく聞く、ポルトガル語の単語に気になるものがあった。ソブリヴィヴェール(Sobreviver)という言葉だ。ヴィヴェール(Viver)は「生きる」という意味。Sobreがつくと、どう違うのだろう?あえて意味を確認するタイミングを逃したまま、その音を聞いて過ごしていた。だいたい、その単語が聞こえる時は、他愛もない日常の話をしている時だからだ。でも、しばらくして自然と意味がわかった。「生き延びる」ということらしい。それを聞いて愕然とした。ただ、生きる、だけではなくて、生き延びることを意識してきた人々の日常に気が付いたからだ。前回に引き続き永井佳子さんをお招きし、どうやってブラジルができたのか、歴史、文化、アートについて語り合った。

生きるための文化

文・構成:永井佳子

Sobrevivência 「生きのびる」
ブラジルでよく聞くポルトガル語の単語に気になるものがあった。ソブリヴィヴェール(Sobreviver)という言葉だ。ヴィヴェール(Viver)は「生きる」という意味。Sobreがつくと、どう違うのだろう?あえて意味を確認するタイミングを逃したまま、その音を聞いて過ごしていた。だいたい、その単語が聞こえる時は、他愛もない日常の話をしている時だからだ。でも、しばらくして自然と意味がわかった。「生き延びる」ということらしい。それを聞いて愕然とした。ただ、生きる、だけではなくて、生き延びることを意識してきた人々の日常に気が付いたからだ。

永井:このプレゼンテーションはブラジルがどのようにはじまったか、という話からはじまります。北東部のレシフェとサルバドールの二つの都市はブラジルのなかでも最も古く、今なお凝縮された文化が生きている場所です。それには植民地時代にアフリカから連れて来られた人々が、日々作り上げた文化が関連しているのではないかと思います。それが19世紀末の奴隷解放を経て、かつて奴隷として雇われていた人々が労働者となり、職を求めて北部から南部のサンパウロなどの大都市に移動してきます。結果としてそのことが大都市に住む人々の格差を生み、ホームレスの問題につながっているという流れがプレゼンテーションの最後でお話ししたサンパウロで私が訪れた場所の背景になっています。このサンパウロのノヴィ・ジ・ジューリョという地域にある施設は、MTST(Movimento dos Trabalhadores Sem teto屋根のない人々のための運動)通称オキュパサォン(Ocupação占領)と呼ばれています。中心部にあるのですが、ここはもともと電力会社の社宅だったもので、ホームレスの人々が占拠するような形で住んでいます。政府からは不法占拠とされているのですが、市民からしてみれば公共施設を管理するための税金を政府に払っているのに、役割を果たしていないという言い分があります。実際、ここではいろいろなものが使い物にならなくて壊れています。エレベーターが使えなかったり、ガスが通っていなかったり、建物の修繕をしないと住める場所ではありません。私をこの場所に連れていってくれたアーティストの友人は、通常、所属ギャラリーを通して作品を売っているのですが、ここで自主的に展覧会をして作品を売り、建物の修繕費を稼いでいるのです。写真に出てきた4歳の男の子はアーティストの友人の息子です。その子は家がぐるりと壁で囲まれているような、サンパウロのなかでも比較的裕福な地域に住んでいるのですが、街全体の治安はあまりよくないので壁の外で友達と遊ぶことはできません。ところが、ここオキュパサォンではゲートのなかに建物があるので、自由に子供たちが遊ぶことができます。団地の広場で子供が遊んでいるというような状態です。その環境がうらやましくて思わず男の子が「ここに住みたい」と言ったのです。大西さんたちもここに行ったのですよね?

大西:ここに住むにはデモに参加したりして、一緒に戦うことが条件だと言われました。

永井:ここに集まるアーティストは戦うことの一環としてボランティアの組織を組んで、資金集めをしています。作品を売るほかに、ランチを振る舞うイベントをするなどして、その収益を修繕費に当てています。建築家はボランティアで建物の修繕を技術的に手伝っています。アーティストが企画している運動ですが、とても組織的なんです。政府は何もしてくれないから、どんなことでも自分たちでやらなくてはいけないというのが彼らの考えなのですね。

大西:永井さんが最初にブラジルにいらした時、どこへ行くかはどのように決めたのですか?

永井: もともとアフリカから連れて来られた人たちが作ったアフロブラジル文化に興味があって、その中心地であるサルバドールに行きたいと思いました。だけど、ブラジルに行って旅の仕方を変えなければいけないと痛感しました。あらかじめ計画しようと思っても、何も計画ができないのです。現地の人と連絡が取れなかったり、行きたい場所が開いているか情報が錯綜していたり。だから現地に行ってから、大抵、最初の2日間ぐらいをかけて周りの人々に聞き込みをします。そうすると必ず何かに遭遇するんです。例えば、今回サルバドールで参加したサンバ・ジ・ホーダという路上で行われる集まりのことも、その日の昼間、私が泊まった宿に出入りしている人から聞きました。夜になると老若男女が海岸沿いの広場に現れて、さらに近くをたまたま歩いている人がどんどん踊りの輪に巻き込まれていくのがよいんです。ここにはカポエイラのアカデミアもあります。

大西:画像では大きい人が小さい人と対戦していましたね

永井:子供の相手をしているのが先生です。若い子たちはみんなこのあたりで育って、今ではカポエイラを教える立場になっています。実際、共働きやシングルマザーも多い地域なので、子供の学校が終わって親が家に戻るまでの時間、子供たちが集まることができる場所にもなっています。彼らが住んでいる建物は壁と壁を繋げて自分たちで作ったような場所です。サルバドールは寒くても22度とかなので、密閉していなくても気にならないのだなと思いました。ここにいる20歳ぐらいの子に話を聞くと、「小さい頃、僕もこの階段を作ったよ」って言っていました。この街には危険なところも多いけれど、この場所はなんとなく安全な感じがするんです。

会場:そもそも、なぜブラジルに行くのですか?どこが一番共鳴するのですか?

永井:チューニングされるんです。日本にいて狂うことが調整されるような感じです。

会場:それはアート、音楽、いろいろな断片があると思うけど、どのへんですか?

永井:全部。音も動きも視覚もすべて。たとえば太鼓の音やリズムのクオリティはあの場所に行かないと出会うことができないんです。上手な人も下手な人も混ざっているのですが、それを上手な人たちがひっぱっていって一つの音楽に仕立て上げている。日々、自分は頭だけで考えているなと思うんです。ブラジルで音楽が沸き起こっている現場に行くと、そこにいる人々が音楽を通じて言葉にできない、見えない何かに向かっているような感じがします。言葉で考えるのではなくて感じたり、想像したりすることを促される。人間として調整されるような気がするのです。

大西:永井さんの話を聞いていると、ブラジルの人なのかな?と思うときがある。憑依しているというか、自分のものになっている。もし私が別の地域に行って、その場所のことが好きになっても、あくまでもよそ者に感じてしまって、自分のこととして言うことを遠慮してしまうことがあります。(ブラジル人教育学者の)パウロ・フレイレの本を読んでいると、それじゃだめだ、って言っているような気がするんです。相手に対して、本当に身を投げ出すぐらいではないと。

永井:パウロ・フレイレは文字の書けない大人にたった3日間で読み書きを教えたと言われていますが、どうやったのだろうと不思議に思っていました。日本だとフレイレについては『被抑圧者の教育学』を読むしか手がかりがないのですが、もっと実際的なことが知りたかったのです。それでフレイレの故郷であるレシフェに行くことにしたんです。現地に行って色々な人に話したら、私がもともと知っていたアーティストのジョナタス・デ・アンドラーデが、ちょうどそのときフレイレについての作品を作っていることを知って、彼と話しているうちにいろいろわかっていきました。フレイレが実際にやったことは街のバーとか、人の集まる場所に行って、そこにいる人に話すことです。例えばさとうきび畑での畑仕事を終えて、バーでくつろいでいる労働者と会話をする。「身体どう?」「痛いところない?」「病院は?」「治療にいくら払っているの?」「どこの病院がいい?」など、そういう会話をしながら関係性を作っていく。例えば、大人だったら「薬」という言葉はすでに知っているし、自分が飲んでいる薬についても説明できる。言葉を使う能力はあるのですが、書き方を知らないだけです。ここで重要なのは、自分ができることをしっかりと認識して、自分の能力に自信を持つこと。それを踏まえて話し言葉に音節を当てはめていくと、驚くほど早く書くことを習得できたというのです。フレイレが活動していた60年代はブラジル全国で選挙が始まったのですが、国民を選挙に参加させるためには文字が読めなくてはならなかった。それで超特急で識字率を上げるために教育省にいたフレイレがそのメソッドを編み出したということなんです。

会場:今は、押し合いヘしあいの状況のなかでコミュニティが生まれていると思うのですが、例えば政府が譲歩して要求を認めてくれることになったときに、いままで育まれてきたコミュニティはどうなるのでしょう?

永井:政府が完全に譲歩することはないような気がします。それは、現地の人とやりとりをしていると感じます。でも仮に彼らの主張の30%ぐらいを認めるということがあったとしたら、その30%を勝ち取ったことに全力で喜ぶ。それで残りの70%をまた全力で戦う。そういう戦いを世代を超えて引き継いでいくのです。だけど、どの時代においても、その30%を勝ち取ったことの達成感とか勝利の逸話は語り継がれるのではないかと思います。

会場:貧しい人たちだけではなくて?

永井:すべては隣り合わせになっているんです。裕福な人も自分たちのいる社会が完全ではないという事実を抱えて、ずっと問題を横目で見ながら一生を過ごしているわけですよね。見ようとしない人もいるけれど、逆にそういう人たちは恐怖感を抱えていて、自分の資産を守るために家をガチガチに壁で取り囲んだりします。そういう意味では誰もがずっと戦いつづけている。フレイレも亡命しなくてはならなかったし。

大西:ジンギさん(MTSTに参加しているアーティスト)はアーティストなので、いろんな社会に属しているのが印象的でした。あるオープニングパーティに連れて行ってくれたときは、街では見かけないスタイルがよくて美しい人たちばかりで。世界が違いました(笑)。

永井:たまたま私がそういう作家に会う機会が多いのかもしれないのですが、本人たちはそういう生活をしていることへのうしろめたさみたいのがあるような気がするんですよね。だから積極的にファベーラに行ったりとか、自主的に小学校に教えにいったり、仕事を求めている人を積極的に雇ってあげたりするのではないかと。実際、今活躍しているアーティストのなかには貧しい家庭の出身だった人もいます。アーティストのサンドラ・シントのアトリエに行ったとき、何人もお手伝いさんがいて、ドライバーもいる。日本人の感覚からしたら、裕福な環境だなって思うかもしれないのですが、彼女に言わせると仕事をみんなでシェアしている感覚だと言います。例えば働いている人の健康保険を払うことで、自分たちが持っているものを確実に必要な人たちに分配していると。彼女のアトリエにいくと、雇う雇われるではない関係性を感じます。働いている人が家族のようで心で繋がっているのです。

会場:印象深かったことは、永井さん自身がチューニングされる、っていうところでした。実感がその言葉に出ている。日本で生活していて、私自身、それに代わるものはあるかなと思うと悩ましいので、魅力的だなと思いました。問題を認識し、問題があるからみんなが団結するパワーが生まれる。音楽は言葉として、もしくは団結の手段として使われる。だけど、それ以上に快楽があるのではないかと思いました。問題に対峙するために音楽を言葉の代わりとして使う。そこも日本と音楽に対する価値観が違うな、と。

永井:音楽は本当に気持ちがいいので、それを求めて行く側面もあります。ライブを聴いていると、そこにいるだけでいいという気持ちになります。プレゼンテーション冒頭のいろいろな個人や団体が音楽を路上で演奏している動画はものの1日の出来事なんです。レシフェの近くのオリンダという街を歩いていたら、こうして多種多様な音楽を人々が練習していました。街の人にとってはライブがいたるところで行われているようなものですよね。でも、ブラジルの社会や歴史を知ると、昔はこうして音楽を演奏している人々のなかには辛い日々を送っている人たちがたくさんいたのではないか、と想像することがあります。肉体労働で身体がぼろぼろだったり、雇い主から不当な扱いを受けていたり、毎日がそういう生活だからこういうところに行って音楽の力を借りて自分を取り戻すのではないかと。ブラジルにいって言葉がわかるようになると、旋律は明るくても、歌の歌詞がすごく悲しいことに気がつくんです。「ご主人様にバターをこぼしてしまったことを言わなくては」とか「壊れないと思っていた家が壊れた」とか。意味がわかってくると、引き裂かれるような思いがします。例えば、奴隷としてアフリカから連れて来られた人々は一切、祖国に帰ることを許されていない。しばらく帰れないのが寂しいのではなくて、故郷があることを知っているのに一生帰れないのです。絶対実現されないことへの強い思い。だから、意味も強くなります。なすすべがなくて引き裂かれるような思いというのが、ブラジルの文化から私が受け取る感覚です。音楽は明るいのに、悲しい・・・、という二重の意味も。

会場:生きるために文化があるというのにハッとしました。会えない人に伝えるとか、次の世代のために言葉を残すとか、そういう目的を果たすための想像力を持っているんですね。

永井:ここでまとめた芸能って、特に奴隷としてアフリカから連れて来られた人たちが作り上げたものが多いのですが、美術館に入らないものばかりなんです。通常、私たちが文化芸術を体験するとき、行政が用意した予算で運営されている美術館や劇場に行くのが当たり前のこととされがちですが、そもそもその枠組みに入らない文化がたくさんあります。ブラジルの路上の文化はこんなに豊かなのに、美術館のなかではそれとは別の文脈の文化が展開されているような感じがします。路上の文化を体験するには、自分で現場に行かなくてはいけないし、存続させるには人を育てていくしかない。私が今回まとめたものは、ブラジルのなかでも一部の文化なのですけど、路上にしかないものが、人を介してここまで続いてきているということに毎回すごく感動します。本当はそういうものって、どの国にもあると思うんです。

大西:全体を通して永井さんの話を聞いて、最後に政治と社会運動というのがくるのだけど、最初は音楽からはじまったり、途中でレンガを作るシーンがあったり、何か感覚的なものとつながっているというのが面白いと思いました。人間の間に共有されて言葉にならないものが変化していって論理的な社会運動になっていきますよね。

永井:ブラジルではみんな大変なことも、そうでないこともよく話します。そうやって話すことが運動になっているような気がします。話し合いを続けながら、結果的に文化が形成されていくんです。楽しいとか、生きている感じがするということにみんなすごく敏感です。例えば、目下の目的はここで音楽を弾き続けるにはどうしたらいいか、というようなことだったりする。たとえばサンバの集まりをずっと続けていくにはどうしたらいいか考える。そのために場所を借りないといけないね、ということになる。制度はそのあとにできてくる。そういう身体の感覚が大切なんですね。

百田:お話を聞いていて「運動」っていうのが頭に浮かんで。ムーブメントという運動もそうだし、身体を動かすというのも。ムーブメントについては、あのオキュパサォンのプロジェクトもそうだけど、サポートする、されるの関係が曖昧になって、みな同じようなレベルで参加しています。見方によっては福祉のプロジェクトに見えるけど、ムーブメントになった瞬間、もう福祉ではなくなるのが面白いと思いました。あとインプットとアウトプットが一緒。受け身じゃなくて参加しているひとたち全員が感じて、なんらかの意見や表現を発している。そう考えると、身体を動かす運動も音楽もムーブメントみたいな感じがします。日本で音楽といったらプレイヤーがいて、それを観客が聞くということが多い。でもブラジルの音楽って蓋をあけたらみんな参加していたというような開放感がある。身体を動かして参加者になって、それが感覚的な言語となっていろんな活動がムーブメントの原動力になっていますね。

永井:まさに今回のプレゼンテーションのために自分の旅をストーリーにまとめたことで驚きと発見がありました。現地にいるときの私は必死でこの音を誰かに聴かせたいという思いで写真や映像を撮っています。現場にいる人はみな音楽や踊りが楽しくて、こういうことをずっとやっていたいからやっている。ただそれだけなんです。振り返って話してみると辻褄があっているようですが、現地では音楽や表現の断片が散らばっているという状態なのです。今回、その現場を振り返ってなんでこんな環境ができていったのかなと考えてみると、こういう表現全体がプロテストに見えてきました。ブラジル社会に共通する骨子が現れたような気がしたのです。

会場:コロナによる自粛で旅ができなくなったじゃないですか。僕も奥会津みたいなところにいると、普段東京では使っていないような感性が開くことがあるのですが、それができないこの半年間は苦しく感じます。だから、皆、どうしているのかな、と思って。でも、今日聞いた話によると、かつての奴隷の人たちは数百年にわたってその感覚を経てきたのだな、ということがわかりました。そこにヒントがありそうですね。生きるための文化じゃないけど、そういうことの産みの苦しみのなかに僕たちはいるのかもしれない。

(これはプレゼンテーションのあとに行われた会場の参加者との対話を後日編集したものです)